音楽史の旅

J.S.バッハ モーツアルト ベートーヴェン シューマン ショパン ショパン主要作品リスト フォーレ ドビュッシー バルトーク

ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルト

 (1756〜1791)ザルツブルグ ー ウイーン

父と息子

 1756年1月27日、バッハの死後6年後に、モーツアルトがオーストリアのザルツブルグで産声をあげた。

 父レオポルド・モーツアルトは、ザルツブルグの宮廷音楽家として40年仕えた。ちょうど、ヴォルフガング誕生と同年に自費出版された「ヴァイオリン教程」という指導書が後世に伝えられている。父レオポルドは、若い頃、実母との折り合いが悪くなり、アウクスブルクにある実家との関わりを絶たれてしまっている経緯があり、ヴォルフガングの才能を、自身の野心と大望を満たす役割としてある意味、利用していたとの見方もある。レオポルドは、「ヴァイオリン教程」でも述べている様に、アンチ権威主義ではあったが、実際は非常に地位や名声を欲しがっており、自分が得ている以上の地位に息子つけたいとは、終始考えていた様である。

 しかし、教養ある立派な父親として子供の教育に真摯に取り組んだという点は、見過ごされてはならない。「モーツアルトの手紙」が父に宛てられたものが一番多かった事からも、モーツアルトが、誰を一番信頼し指針を仰いでいたかが伺われる。「神様の次はパパです」がモーツアルトの少年時代のモットーであった。

 父の方は、息子を終始、支配下に留めておきたい願望もあった。
ヴォルフガングは7番目で37歳の時の子供だったが、当時は衛生状態が悪く、産後死亡率が高かった為、4歳半年長の姉ナンネルとの2人姉弟だった。

 早くから、息子の天才的な才能に気付いたレオポルドは、「演奏旅行」という方法で、その才能を世間に知らしめる。狭いザルツブルグでは無く、大きな市場での仕事を求めての旅である。(これは、モーツアルトが青年期に近づくにつれ、就職口を探す旅となる。)そして父は、あらゆる機会に所得を増やす事を考えながら、財産作りに走って行った。

旅から旅へ

ザルツブルグ

 1762年(6歳)のミュンヘン、ウイーン旅行から、死の年1791年(35歳)のプラハへの旅まで、生涯が旅から旅の人生であった。母親が亡くなるまでの間は、家族全員や、あるいは家族の誰かと一緒というスタイルであった。一家の旅行は、四頭立ての馬車で行われた。節約家の父が何故そうした出費を惜しまなかったかと言えば、見栄えのためである。この旅には、モーツアルトが幼年期のうちは、ザルツブルグ大司教から補助金が出ていたし、どこかの国がスポンサーになる時もあった。

 各地で「神童」と呼ばれ、一家は大歓迎を受け、もてはやされた。
王侯貴族から、褒美に大礼服を贈られたこともあった為、モーツアルトは、終生、公の場では、身なりにこだわったそうである。「薔薇色のモワレの生地に銀のレースと空色の飾りのある服を新調した」ことなどが、ナポリからのレオポルドの手紙に残されている。
その他、山の様な高価な贈り物を受け取ったとされている。演奏旅行では、経費を差し引いたとしても、かなり大きな収入を得ていた。

 ドイツ語圏のみならず、パリやイタリア、或る時はドーヴァー海峡を渡ってイギリスの地も踏んだ。ロンドンでは、バッハの末息子ヨハン・クリスティアン・バッハや名カストラート(去勢された歌手)にも出会い、大変刺激を受ける。
この頃のザルツブルグ大司教は、シュラッテンバッハという理解ある人物で、モーツアルト一家の評判で、ザルツブルグが活気づくことも知っていたので、寛容な事に、有給で大旅行のための休職をはからったのだ。

 旅行は、モーツアルト自身も望んだ事であり、21歳までは、何処に演奏旅行をしても必ずザルツブルグに戻らなければならなかった。父が宮廷音楽家(度重なる旅の故の不在で、出世は副楽長までだった。)だったばかりでなく、息子の方もまだそこに仕えていたからである。

 フランクフルトでは、当時14歳のゲーテがモーツアルトの演奏を聴いており、ウイーンのシェーンブルン宮殿では女帝マリア・テレジアに謁見し、まだ少女のマリー・アントワネットとの邂逅もあった。

オペラへの興味

 モーツアルトの作品において、創作の重要な要となるジャンルである「オペラ」だが、これは、1769年末から1773年まで父子で行ったイタリア旅行に、最初の芽を見つける事が出来る。モーツアルトはイタリアに魅せられ、なんとミドルネームを改名までしてしまった。アマデウスとは、ここから名乗るようになる。当時14歳頃のモーツアルトは大はしゃぎで、母親に、イタリアでの楽しい生活の様子を手紙で送っている。

 ヴェローナや、ミラノ(オペラの作曲を依頼される)、パルマ、ボローニャ(当時64歳だったマルティーニ師に対位法の教えを受ける)、フィレンツェ、ローマ(教皇のクレメンス14世の勅令により、黄金の騎士軍勲章を授けられる)、ナポリと続く旅をし、至る所で、歓迎や仕事の依頼、成功を収める。しかし、ミラノでの就職口探しは、失敗に終わる。「王侯貴族の移り気」にモーツアルトは生涯翻弄されるのである。

 このイタリア旅行で、モーツアルトが受けた刺激と影響は多大である。又、イタリア語をマスターした事も、オペラのレチタティーヴォを書く時などに、大変役立った様である。

コロレド大司教とザルツブルグとの訣別まで

 故郷に戻ると、以前の大司教は亡くなり、新しくコロレド大司教が選任されていた。

 後に決定的な仲違いをすることになるこの支配者は、まだこの時期、モーツアルト一家に厚意を示している。しかしながら、レオポルドに対する、支配層からの反感は強まっていた。狭いザルツブルグに閉じ込められたモーツアルトは、年俸150グルテンのコンサートマスターとして、生活の保障と引き換えに陰々滅々として7年半過ごす。音楽的な刺激のない田舎の町の生活に、ひたすら閉塞感を感じていた。夏期休暇を利用して、ウイーンに就職探しの旅に出かけるが、失敗に終わり、旅費も次第に底をつく。しかし、このウイーン旅行で、モーツアルトは失いかけていた情熱がよみがえったように、音楽はドイツ的な方向転換をする。1773年は、豊潤な年となるが、この時期、クラヴィア協奏曲の分野にも手を染めている。この、「ピアノ協奏曲」というジャンルは、そろそろ年齢が行き、幼い頃の名人芸が通用しなくなっていたモーツアルトにとって、新たな自分を魅せる強みとなる。 

 その翌年は、ミサ曲など教会音楽を作って、忠実に宮廷音楽家としての職務を果たしたり、ミュンヘンの宮廷からオペラ・ブッファの注文を受け成功する。この頃は、ギャラント(優雅で軽快な)・スタイルが大衆の好みであった。

 父子は、ウイーンや、ミラノ、ミュンヘンなどで就職口を探そうと試みるが、コロレド大司教とウイーンのつながりは意外に深く、また、ヨーロッパに多大な勢力を誇っていた女帝マリア・テレジアも、モーツアルトの雇用に難色を示しており、目的は果たせなかった。

 1777年8月1日、3度目の請願で、ついに辞職願いを出すが、父親の辞職も条件だった為、父レオポルドは年老いた自分は職に留まる決意をする。

 1777年9月23日、22歳を前にしたモーツアルトは、母親のマリア・アンナと共に、故郷を飛出し(コンサートマスターを辞職)、新天地を求める旅に出る。

 ミュンヘン、アウクスブルグ、マンハイム、と旅をし就職口は見つからず、パリに到着し、その地で母親が病死する。旅の疲れから体調が弱ってしまったのである。マンハイムからパリまで同行させられた訳は、息子が女性関係で身を持つ崩さない様に、又、自分達以外の他の家族と仲良くしない様にと、レオポルドが付けた監視の役割であった。しかし、モーツアルトの悲しみと寂しさは相当なものであったと思われる。悲しい時でも長調を作曲するモーツアルトが、この時ばかりは、激しい短調のピアノソナタK310を作曲している。

 パリで生活するためには、生徒を取ってレッスンして生計を立てなければならなかった。
これは、モーツアルトに向く仕事では無かった。パリからは、父親にこんな手紙を送っている。「大好きなお父さん。…この土地でいちばん勘にさわるのは、あの馬鹿なフランス人たちが、僕の事をまだ7歳の子供だと思っている事です。というのも、7歳の時、ぼくを見たからです。…この土地でレッスンする事は、生半可なことではできません。身も心も消耗します。しかも沢山レッスンしなければ、お金は沢山入ってきません。…」パリ滞在は6ヶ月間、帰路は、母を亡くしたモーツアルトの一人旅となった。就職探しの旅が失敗に終わったのは、いかに天賦の才に恵まれていても、彼はまだ若く、音楽家の長となるには経験不足とみなされたことがあるだろうと考えられている。又、父親との二重採用への筋書きが垣間見えてしまう為、そこも雇用者の懸念すべき点だったのである。モーツアルト自身は、プロの音楽家としてフリーランスで活躍するのも悪くないと思っていた様だが、父レオポルドの野望は、名声と格式ある地位に就かせて、なおかつ自分も移住する事だったのである。

 パリで職を斡旋された中で唯一父が気に入ったのは、ヴェルサイユ宮殿のオルガニストの口だったが、段々、家族企業に懐疑的になって来たモーツアルトは、それを受けなかった。
レオポルドから、あの手この手で、ザルツブルグへ呼び戻し作戦が始まる。

 パリに来る前のマンハイム(マンハイム時代は、仕事面でも充実する。)で、写譜師のウェーバー氏にお世話になったモーツアルトは、その娘で歌手の卵のアロイジアに恋をする。1778年のクリスマスの頃に、彼女とミュンヘンで念願の再会を果たすが、既にミュンヘンでオペラ歌手になっていた彼女との恋に破れたモーツアルトは、一年半ぶりにザルツブルグに戻る事になる。

 1779年23歳の頃、ザルツブルグ宮廷楽団のオルガン奏者兼コンサートマスターとして正式に任命されるが、劇場もオペラが生活に根ざしていないこの地で、モーツアルトにとっては単調で灰色の日々を送る。
そうこうする内に、ミュンヘンのカール・テオドールより依頼されたオペラの傑作「イドメネオ」の大成功により、再び自信を持ち始めたモーツアルトと、ザルツブルグ大司教コロレドの関係は、悪化の一途をたどり、ついに、ウイーンで決裂する。アルコ伯爵からお臀を蹴られて、大司教サイドとの最期の訣別を迎える。

 父に宛てた手紙では、「お父さんも喜んで下さい。ぼくの幸福は今日始まるのですから…。」と述べている。狭い街での生活の保障を捨てて、ウイーンでの自立と自由に向けての生活の始まりであった。それは、父の保護と支配下からの別れでもあった。

 モーツアルトは、実人生で一人前の独立をとげ、音楽の中にも、独立した自己を確立したと言われている。

コンスタンツェとの結婚

 ウェーバー家の主の亡き後、夫人は下宿屋を営み生計を立てるが、ウイーン時代の初め、モーツアルトはそこに部屋を借りる。三女コンスタンツェ(アロイジアの妹)と結婚するまでには、家族の猛反対を受けた。モーツアルトにとって結婚は、父からの解放と分離を意味した。浪費家で、生活の切り盛りが出来ない悪妻と言われたコンスタンツェは、身体が弱く、家の財政が困窮した晩年も、チェコの湯治場へ行くなどしているが、モーツアルトは愛情深い手紙をしょっちゅう送っている。興味深い事に、終生、貴族の女性を追い求めたベートーヴェンと異なり、モーツアルトは、手紙の中でも「金持ちの女は欲しません。」と書いている。

ウイーンに定住

 ウイーンでは、自作の出版や、大演奏会などによって、比較的容易に自活の道が開かれた。ウイーンでのモーツアルトの最大の庇護者は、ヨーゼフ2世であった。オペラ「後宮からの誘拐」は、大成功をおさめる。また、バッハの末息子ヨハン・クリスティアン・バッハとの親交を持ったり、今までにはみられない大勢の人々と、層の厚い親交を持つ。

 又、台本作家のロレンツォ・ダ・ポンテと知り合い、オペラの作曲に精を出す様になる。
フィガロの結婚、コシ・ファン・トゥッテ、ドン・ジョバンニ。傑作オペラが次々に生み出される。
プライベートでは、2人の男の子に恵まれる。(6人生まれたが、当時は衛生状態が良くなかったため、生き残ったのは2人である)。宗教の秘密結社フリーメーソンにも入団する。(ハイドンも同じ頃に入団している。)ビリヤードなども楽しんだ様だ。

 そして、1787年に父レオポルドが死去する。

経済的な窮乏と念願のドイツ語オペラ「魔笛」の作曲

 ヨーゼフ2世から、王室宮廷作曲家の称号を与えられるも、モーツアルトは、金銭感覚に秀でていなかったため、1788年から借金地獄に苦しむ。父レオポルドの遺産も、意図的にモーツアルトには与えられなかった。この頃から、モーツアルトは既に病に冒され始めていた。

  

興行主のシカネーダから、かねてより、作曲したいと願っていた<ドイツ語>のオペラ(通常、オペラはイタリア語)「魔笛」の作曲を持ちかけられる。モーツアルトは快諾し、一ヶ月程で9割程仕上げるのだから、かなり嬉々として取り組んでいた事が判る。

 この時期、モーツアルトは、ねずみ色の服を着込んだ背の高い男から、署名の無い作曲依頼状を受け、「レクイエム」の作曲に承諾する。

 「魔笛」の初演では場末の劇場で行われたが、貴族だけでなく、一般市民でも会場が埋め尽くされた。モーツアルトの晩年は、ウイーンでの成功と裏腹に、経済的な窮乏、病いとの闘いがみられる。

レクイエムと最期

モーツアルト胸像

 35歳になっていたモーツアルトは、その若さで、1971年12月5日に永遠の眠りについた。「レクイエム」は、中途になっていた為、死の床から、弟子のジェスマイヤーに、自分の死後、完成させる様に指示を出している。

 貧しさの中で亡くなったモーツアルトの葬儀は、近親者のみの参列の中、遺体は、十字架さえ建てられること無く、共同墓地に埋葬された。

 

追記:
モーツアルトが去った後の、ザルツブルグの対応と姉ナンネルの態度
 モーツアルトに去られたザルツブルグは、その後、モーツアルトの名前を市を挙げて排除したという研究がある。姉のナンネルも、晩年、弟については好意的とばかりは言えないコメントを残している。

参考文献
ミシェル・パルティ著 「モーツアルトー神に愛されしもの」海老沢敏監修 高野優訳 創元社、1991年
メイナード・ソロモン著 「モーツアルト」石井宏訳 新書館、1999年
柴田治三郎 編訳「モーツアルトの手紙上・下」岩波文庫 1980年

ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

 (1770年 ボン → 1827年 <57歳没> ウイーン)

 ベートーヴェンは、音楽史上「新約聖書」と呼ばれる32曲のピアノソナタを作曲し、「ソナタ形式」を発展・確立させました。
 交響曲(9曲)の分野でも、力強くダイナミクスに富み、独創性溢れる作品を世に残す偉業を成し遂げました。演奏時間も、それまでの 古典派の巨匠モーツアルトやハイドンを遥かに越えるもので、従来は、歌劇場でしか使用されていなかったトロンボーンや、ピッコロ、コ ントラファゴットを使用したりもしました。 
 作品番号を自分で付け始めた最初の作曲家でもあります。作品制作順にop(オーパス)何番と付けられ、また、作品番号のないものに はWoOが付けられています。

 この時代は、長く続いた特権階級であった王侯貴族の権力が次第に弱まり始め、「市民」に力が生まれた、社会の大変革期でもありま す。
 公の場でのかつらの着用は、本来まだしなければならなかったのですが、従属を嫌う頑固なベートーヴェンは、かつらを被ろうとせず、肖 像画でも、ぼさぼさ髪で描かれています。

 音楽家にとって致命的である、「難聴」と闘いながらも、「苦悩との闘争を経て、勝利と歓喜にいたる」という信念を持ち続け、更なる 芸術的な高みへと昇りつめました。


ボンでの生い立ち

 ベートーヴェンは、1770年12月16日にドイツのボンで生まれました。(ボンは,1990年まで,西独の首都)
 同名の祖父は、立派な宮廷楽長の職に就き尊敬を集めていましたが、父ヨハンは、宮廷テノール歌手で、大酒飲みのアルコール中毒でし た。これは祖母の影響に因るものです。
 父は、息子より14歳年上の有名なモーツアルトの噂を聞き、ベートーヴェンを、第二のモーツアルトに仕立て上げようという夢と野心 を持ちました。
 厳しい音楽訓練を強いる割には、モーツアルトの父親ほどの才覚は無かったため、息子を神童として世に知らしめることは出来ませんで した。

 11歳の頃より、偉大な影響を与えた優れた良い師、ネーフェのレッスンからは、貴重な教えを受けました。温かい心の持ち主の師ネー フェは、彼の天分を見抜いており、自分の好みを押し付けることもなく、ベートーヴェンを伸ばしました。バッハの「平均率ク ラヴィーア曲集」やモーツアルトの作品を勉強しました。
 この時期のドイツでは啓蒙主義の理念があり、ネーフェは、倫理的にも優れた人間でした。
 後に、「自分が将来偉くなるようなことがあれば、それはまったく先生のおかげです。」とベートーヴェンは述べています。

 母の死以降、父のアル中は益々ひどくなり、仕事上でも駄目になっていったので、ベートーヴェンは、父に代わって、早くから宮廷楽団 員として(オルガンやヴィオラ奏者として)お給料を貰い、わずか16歳で、一家の経済的な担い手として、2人の弟達の面倒 をみなければなりませんでした。

 ベートーヴェンは、第2子でしたが、長男がすぐに亡くなっていた為、長男の役割をしなければならなかったのです。
 ろくに学校も出させて貰えず、すさんだ家庭で父の暴力に怯えていた少年期を送りました。
 後に、短気で癇癪な面が明確になるのは、耳の病のせいだけではなく、乱暴な父親の影響もあるかもしれません。
 一家5人(母の死以降は4人)の生計が重くのしかかるベートーヴェンの肩には、自立心と責任感も否応無しに負う事となり、そうした 環境は、ベートーヴェンの才能を磨き不屈の精神を育みました。

 

自由・平等・博愛の時代の幕開け

 この時代は、長く続いた特権階級であった王侯貴族の権力が次第に弱まり始め、「市民」に力が生まれた時代でもあります。
 「自由・平等・博愛」のフランス革命精神がこの時代のキーワードです。
 1789年は、フランス革命、バスティーユ襲撃、アメリカ合衆国の建国などありました。ナポレオンの各地への遠征によっても、ヨー ロッパ中に、このスローガンが広まりつつありました。
 「最大多数の最大幸福」のジャン・ジャック・ルソーらの啓蒙思想が、人々の心の支えとなっていました。

 こうした時代の精神は、後に「第九交響曲」に表れる、人類愛の精神へと導かれます。
実際、ベートーヴェンは、詩人シラーの「歓喜に寄す」から曲を作ろうと思い立ったのは、18歳頃だったそうです。また、哲 学者カントの思想がカフェなどでも盛んに談義された時代でもありました。
 1792年には、フランス国王ルイ16世が投獄され、翌年、王妃マリー・アントワネットも断頭台での処刑を受けるという変革的な時 期でした。

 

パトロンに囲まれての順調な滑り出し(ベートーヴェンの処世術)

 父が働かないので貧しかったけれど、音楽の才に優れたベートーヴェンには、貴族のパトロン(スポンサー)が多く支持してくれた為、 教養を身につけたり、音楽の道を開くのを協力する方々に恵まれました。
 22歳頃に一度ウイーンへ行った際、ベートーヴェンは、晩年のモーツアルトに面会し、才能を認めてもらう言葉も受けました。

 隣国でフランス革命が起きていた1879年には、ボン大学の哲学科の聴講生として学んでいました。

 生涯、貴族や自分の支持者の気をそらさず、支援者を保ち続け、時流を見計りながら、収入につながる作品を書き続けました。まさに機 を見るに敏、時代を見て、需要に応え続けるビジネスマンとしての手腕にも優れていたといえるでしょう。

 ベートーヴェンのボン時代は、皇帝ヨーゼフ2世の弟マクシミリアン・フランツ選帝侯の治世でした。
 貴族のブロイニング侯爵、ワルトシュタイン伯爵らがパトロンになり、彼らの夫人もまた、ベートーヴェンの面倒をみてくれました。
 後ろ盾の貴族達の力を借りて、ウイーン行きを決行しますが、到着して2ヶ月も経たないうちに、父が亡くなった事を知らせられます。

 

音楽で身を立てるべく、ウイーンへ

 ベートーヴェンは22歳で音楽の都ウイーンに出て、まずは、ピアニストとしてスタートを切りました。
 ピアニストとしての自信と野心に満ちた、彼のヴィルトゥオーゾ的な魅力に惹かれた、ウイーンの貴族社会で受け入れられ、彼の名声 は、次第に高まって行きました。作曲の方面でも、「悲愴ソナタ」の出版などで人気が出て、出版社が競って彼の作品を手に入 れようとしました。即興の才もありました。

 ウイーンでも、リヒノフスキー侯爵を筆頭に、ラズモフスキー伯、他多数のパトロンに手厚く庇護されました。(この方達は、後に、「年 金」を与えてくれるなどもしました。)
 貴族のステイタスに取っても、重要な芸術家のパトロンとなることが、大事なことだったのです。
 ベートーヴェンは、経済や立場の安定のために、パトロンの貴族へ作品を「献呈」しますが、実際は、隷属させられるのを拒み、自立心 を持ちたがる面も合った様です。

 ハンガリーの貴族エステルハージー家での勤務を終えたハイドンに3年間師事することとなります。
 ハイドンからは、古典ソナタ形式、主題の展開、調性、音量の対比など学びましたが、彼は「ハイドンからは何も学ばなかった」と認め 様とせず、それまでの作曲家には無い、独創性を打ち出しました。しかし、多くの影響が初期の作風から伺えます。

 

32曲のピアノ・ソナタ

 [新約聖書]と呼ばれるピアノ・ソナタは、3つの時期に分かれています。
 従来の古典派のピアノソナタの形式を脱却すべく、他の作曲家がやらない様なアイディア溢れる実験が繰り広げられています。

☆初期☆ 1〜11番( 25〜30歳頃)
 華やかな演奏効果のある作風に、輝かしいピアニスト・作曲家としての将来への野心と、生き生きとした青年ベートーヴェンが浮かび上がります。

☆中期☆ 12〜18番(31 〜32歳)、21〜27番(39〜44歳)の過度期含む 
 耳の異常を自覚し、悩み苦しんだ後、精力的に次々と新たな作曲上の可能性を追求して行きます。

☆後期☆ 28番〜32番 (46〜52歳)
 苦手だった対位法を習得し、宗教的で精神的な深みのある境地に昇りつめます。

貴族への献呈の状況を、以下に記します。
ピアノソナタ1番〜3番 師であったハイドンへ       
      4番 ケグレヴィックス伯爵令嬢
      5番〜7番 ブローネ伯爵夫人
      8番[悲愴] リヒノフスキー侯爵
      9番〜10番 ブラウン男爵夫人
      11番 ブローネ伯爵
      12番 リヒノフスキー侯爵
      13番 リヒテンシュタイン侯爵夫人
      14番[月光] ジュリエッタ・グィチャルディー嬢
      15番[田園] ゾンネンフェルス氏
      16番〜20番 なし
      21番[ワルトシュタイン] 同名の伯爵へ
      22番 なし
      23番[熱情] ブルンスヴィック伯爵
      24番 テレーゼ フォン ブルンスヴィック伯爵夫人
      25番 なし
      26番[告別] ルドルフ大公
      27番 モーリッツ・リヒノフスキー侯爵
      28番 エルトマン男爵夫人
      29番 ルドルフ大公
      30番 マクシミリアーネ・ブレンターノ嬢
      31番 アントニア・ブレンターノ夫人
      32番[ハンマークラヴィーア] ルドルフ大公

 中期に、作品の献呈をしていない時期がありますね。独立心を意味するのでしょうか。
 ベートーヴェンには、人生の折々に作曲を休止する時期、というのがあり、又、ピアノ曲に限った話ではありませんが、ひとつのジャン ルで最高のものを作ると、別のジャンルへと移る傾向がみられます。  

 この頃、ピアノの楽器は次々と改良を重ねられ、世に出ていました。楽器商が次々とベートーヴェンに新しい楽器を贈ったので、ダ イナミックに改良を重ねたピアノで、新たな試みを展開することが出来ました。それまでの貴族のサロン用のピアノから、大 ホールで弾かれる為の、より大きな音量や音域、豊かな表現がしやすいメカニックに変わっていったのです。

 

風貌や日常

ベートーベンの銅像

 背が低く、ずんぐりとした筋肉質の体型、がっしりした肩幅で、肌は浅黒く、黒髪、四角い顔に割れたあご、団子鼻、お世辞にもハンサム とは言えない容姿だったそうです。髪はぼさぼさでヒゲを剃るのも面倒がり、身なりがだらしない事もあったといいます。「野人」と いうあだ名をつけられていた頃もありました。
 79回も引っ越しする程の引っ越し魔で、何度もお手伝いさんを変えています。あまり清潔を好まず、何日も同じ服を来ている事もあっ た様ですが、当時としては珍しい独身だったのですから、仕方ないのかもしれません。しかし、警察から浮浪者と間違われたこ ともある様です。
 自然が好きで、何時間も散歩するのが日課でした。
 メトロノームの発明者メルツェルは、ベートーヴェンの為に、ラッパ型など色々な形の補聴器を考案してくれました。次第にそれも困難 になって行くと、会話帳による筆談でコミュニケーションをとりました。しばらくは難聴を隠していたとのことで、進行してからは、猜 疑心が強くなったり、人との間にますます壁を作る様になって行きました。
 耳の病気は左耳から始まり、ブンブン、ザーザーという耳鳴りに常に悩まされていました。
 弟子の中には、練習曲をたくさん後世に残したカール・ツェルニーがいます。1800年に、9歳で入門しています。
貴族のお嬢さんや夫人達にも教えており、その中から憧れる女性が何人かいたようです。

 

1802年〜「ハイリゲンシュタットの遺書」〜

 1802年、耳の難聴の兆しがはっきりし、療養に出かけたベートーヴェンが、絶望の淵においこまれた気持ちで2人の弟に宛てて書いたものですが、投函はされませんでした。この遺書は、彼の死後発見されました。
 内容は、6年間も耳の治療に苦しみ、耳のことを人に隠しているため、人づきあいの悪い偏屈な奴と誤解された苦悩や屈辱などが綴られています。しかし、芸術が自分を連れ戻し、自分に課された創造をやり遂げるまでは、この世から去れない…というものです。
 本来は、意外と人間好きな面があった様で、気質的には、楽観的な要素も前向きな所もあったそうです。
 ウイーンでせっかく名声を手に入れ、これからという時期に、音楽家に取って致命傷である耳の病気の悪化と、それに因る人間的孤立… 「何故、自分ばかりが…」。この遺書は、生涯の最大の危機を意味しています。
 しかし、持ち前の徳性を発揮し、自分の高い任務のため励もうという強い信念を意識し、これを契機にして立ち上がり、傑作 の森と呼ばれる作品群を生み出すに至ります。

 聴覚は次第に衰えても、彼の中では音楽が鳴っていたのです。

 

ナポレオンとベートーヴェン

ナポレオン

 ベートーヴェンは、フランスを共和制に導いた将軍ナポレオンを尊敬し、「英雄」として讃え、「交響曲第三番 英雄」を書きましたが、35歳でナポレオンがフランスの皇帝に即位したと聞くと、幻滅し、怒って楽譜を床に投げつけたと伝えられてい ます。
 結局、献呈しようと「ボナパルト」と名を冠していた表紙は破り捨て、「ある英雄の思い出のために」と記し直して、出版されました。

 ナポレオンが低い身分から出発して、高い地位に登りつめた偉大さに、自らを重ね合わせていたのかもしれませんし、王党派 を倒したナポレオンの、権力を批判し人間の権利を守る精神に、共感したのかもしれません。
 この時代「英雄」の存在は人々の不安な心に希望を放つ光としての価値をもっていました。その英雄が、まさにウイーンを攻 撃しているという政治情勢が、実は、「英雄交響曲」の献呈を却下した、大きな要因となったようです。
 オーストリア当局やパトロンを怒らせていしまう訳にはいかなかったのです。

 しかしながら、ウイーンは12年間もナポレオンの支配化という状況の中で、彼の英雄ぶりを讃えていたベートーヴェンは、や はり独自の意思を持っていた様です。

 

1812年ーゲーテとの邂逅と、不滅の恋人への手紙ー

 1812年夏に、63歳のゲーテと42歳のベートーヴェンは、湯治目的のボヘミア旅行の際にテプリッツで世紀の出逢いをしました。 ゲーテは、彼の不遜な態度の中にただならぬものを感じて、大変興味を持ったと言われています。
 二人が腕を組んで散歩していたある日、向こうから皇族がやって来たときのこと、ゲーテは、帽子をとって道の脇に控えましたが、ベー トーヴェンの方は、皇族をもろともせずに、真ん中を通り抜け、自分から挨拶しようとしなかった、という有名なエピソードが あります。
 生涯独身だったベートーヴェンは、ジュリエッタ・グィチャルディーや、テレーゼ・ブルンスヴィックら貴族の令嬢や夫人達に憧れ、つ ながりを持ちましたが、その中の、ヨゼフィーネ・ブルンスヴィックとアントニア・ブレンターノと特に関係が深まりました。
 1812年7月6日と7日に書かれた、情熱的な「不滅の恋人への手紙」は、誰に宛てたか特定出来ないため、その後研究者達の間で色 々な説が出ましたが、アントニア・ブレンターノに宛てて書かれたという説が有力です。
 又、ヨゼフィーネの為には、晩年のお金がない時期も、経済的援助をしたそうです。

 

甥のカールの問題

 弟が結核で亡くなった為、ベートーヴェンは、甥のカールを養子にしたいとなり、義妹と親権をめぐっての訴訟が5年も続きます。
カールの母を中傷したり色々な策を試みたりしてやっと手にした念願の親権ですが、当のカールは伯父の愛情を重荷に感じ、母親のもとに 逃げ出したりもします。カールのやんちゃぶりや非行、ピストル自殺未遂に悩まされながらも、甥を溺愛し、死後は7枚の株券 を残してあげました。
 実際は、晩年の主な収入源は、貴族からの年金が主であり、豊かではありませんでした。

 

第九交響曲

 九つの交響曲の中の代表作品には、第五番「運命」、第六番「田園」や、躍動感溢れる第七番、54歳で書いた第九番「合唱付き」があり ます。 
 4楽章に、シラーの詩による人間愛に溢れた「合唱」を有するこの壮大な交響曲の初演では、ベートーヴェンは指揮をするものの、も う全く耳が聴こえなくなっていたので、隣で別の指揮者がタクトを振り、楽団員はそちらを見ていました。
 会場は割れんばかりの拍手でしたが、ベートーヴェンは聴くことが出来ませんでした。
「おお友よ、このような音ではなく心地よい歓喜に満ちた歌を歌おう」という、「苦悩から歓喜へ」と展開して行く楽想は、ベー トーヴェンの人生観そのものだったのかもしれません。

 

巨星墜つ〜ウイーンでの大葬儀

 1827年、激しい豪雨と落雷の激しい3月26日の夕方に、肝硬変のため永眠しました。56歳でした。
デスマスクをとられ、耳は、解剖のため切り取られました。
 葬儀には、貴族の四頭立て馬車をはじめ2000台の馬車と、2万人のウイーン市民が集まりました。
 作曲家のシューベルトは、墓地までの松明持ちにも参加し、「尊敬するベートーヴェンの隣に眠りたい」と、今でも、ウイーン中央墓地 に隣り合って眠っています。  

 ベートーヴェンは死の間際に、ブロイニング侯爵と弟子に「喝采せよ、友よ。喜劇は終わった。」と語ったそうです。

参考文献
1992年、1993年 メイナード・ソロモン著 徳丸吉彦 勝村仁子訳 「ベートーヴェン上下」 岩波書店
2004年 青木やよひ著「ゲーテとベートーヴェン」 平凡社新書
2009年 石井清司著「ドラマティック・ベートーヴェン」 ヤマハミュージックメディア
2005年 原田宏美著「ベートーヴェン ソナタ・エリーゼ・アナリーゼ!」 音楽之友社
1927年 イェフディー・メニューヒン/カーティス・W・デイヴィス著 別宮貞徳訳「メニューヒンが語る 人間と音楽」 日本放送出版協会
1970年 パウル・バドゥーラ・スコダ著 高辻知義 岡村梨影共訳「ベートーヴェンピアノソナタ演奏法と解釈」 音楽之友社
1965年 諸井三郎著「ベートーヴェン ピアノソナタ作曲学的研究」 音楽之友社
2007年 福島章著「ベートーヴェンの精神分析」 河出書房新社

ヨハン=セバスチャン=バッハ

 (1685.アイゼナッハ → 1750.ライプツィヒ 65歳)

 1685年、(日本では江戸時代の頃)ドイツに生まれる。
ドイツに限らず、ヨーロッパ諸国では、教会が大変な権力を持っていた。人々も又、キリスト教を信仰することが、一般的であった。それゆえ、ミサに欠かせない少年合唱隊や伴奏するパイプオルガンの演奏者は、大切な役割を果たした。この頃、職業というのは、自分で好きに選べるものではなく、家業を継ぐという世襲制だった。バッハの一族は、音楽家の家系であった。その中でもバッハには、抜きん出た才能があり、ものすごい勤勉さで、生涯に膨大な数のすばらしい作品を生み出した。

 教会のオルガニスト(それも段々に大きな由緒ある教会の)地位や宮廷楽団の楽長として活躍した。オルガニストというのは。弾くだけでなく、ミサなどで使う曲を自分で作曲しなければならない。バッハは即興性にも優れていた。
ライプツィヒでは、聖トーマス教会のトーマス・カントル(音楽教師兼音楽監督)に就任する。
バッハのキャリアは、ワイマール時代(教会オルガニストの時期)、ケーテン時代(宮廷楽長・世俗の時期)、ライプツィヒ時代(宗教的な深まりの時期)に分かれている。 バッハの時代は、メロディーと伴奏という『ホモフォニー』と呼ばれる音楽ではなく、『ポリフォニー』(多声部音楽)という、どちらも旋律が横に流れる音楽であった。

 子供の頃両親を亡くしたバッハは、その後、年長の兄に面倒をみてもらうが、彼の持っていた沢山の楽譜を、こっそり夜中に写し採って叱られる。バッハの長兄は、パッヘルベルの弟子であった為、貴重な楽譜を所有していた。兄に隠れて、月明かりの中で写譜をした無理がたたり、晩年目が悪くなり、最晩年では失明に至る。
  15歳頃から自立したバッハは、22歳で最初の妻マリア・バルバラと結婚する。バッハは、金銭的な管理については非常に細かかったと言われている。彼女は早くに亡くなったため、子供を沢山抱えたバッハは、独身期間があまり長くてはいけない当時の風習もあり後妻を迎えるが、2人の奥さんの間には20人の子どもをもうけた。その中で、長男フリーデマンと、次男のエマヌエル、そして末息子のヨハン・クリスティアンは後に作曲家として有名になる。才能の普通の子供もみんな男の子は音楽家になった。この子供達の練習用に教育的な愛情をもって作曲されたのが、アンナ・マグダレーナの為のクラヴーア小曲集(二度目の奥さんの名がついている)と、インベンションとシンフォニアである。

 1オクターヴを(半音も入れて)12等分に分ける調律法、<平均率>を考え出したのはバッハである。「平均率クラヴィーア曲集」は、1、2巻とも24曲あり、それぞれ24の調が、1番のハ長調から始まり順番に出て来る。全ての調で書かれているのである。これは、こんにち、音楽の旧約聖書と呼ばれ音楽史上、大変重要な曲集である。

 時代的にハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンは古典派であるが、それより前のバロック時代の作曲家であり、バッハがその後に与えた影響の偉大さから、音楽の父といわれるにいたる。

 しかし、死後は、急速に忘れ去られ、バッハの音楽の復興に尽力したロマン派のメンデルスゾーンによって、「マタイ受難曲」のベルリン公演が成されるまでの間、約80年も待たなくてはならないのである。

ロベルト・シューマン

 (ドイツ 1810年ザクゼン州ツヴィッカウ生まれ → 1856年ボン郊外エンデニヒ没) 

 今年2010年は、共に1810年に誕生したシューマンとショパンの、生誕200年イヤーとなります!

 小説家を志していた父は、書籍出版業を営み、シューマンは、幼い頃から沢山の小説や詩に囲まれて育ちました。
母は、歌が好きで、シューマンは時折、母を「生きている歌の本」と呼びました。

 文学と音楽をこよなく愛するシューマンは、夢見がちな少年でした。

 16歳の時に、姉が自殺し、それを苦にして死んでしまった父のことが、少年期に暗い影を落としました。

 一家の経済を考え、法科に進んで欲しいと願う母の希望で、ライプツィヒ大学の法学部に入学します。それまでも、ギムナジウムでは、「模範的な生徒」と賞されるなど、シューマンは頭脳明晰でした。

 ライプツィヒやフランクフルトで催される音楽会に啓発され、シューマンは、音楽のサークルに入ったり、音楽家になる夢を捨てきれずにいました。一方で、ジャン・パウルの文学に傾倒し、常に「法律と音楽と文学」の間で、揺れ動いていました。

 18歳で、ピアノの名教師ヴィーク先生に出会い、20歳で、師のもとに住み込みで弟子入りします。ピアノの名手になる事を夢見ました。この年、作品1のアべック変奏曲を作曲します。師に認められ様と猛練習し、指を強くする為に、自分で考案した器具を使った練習法で、右の指が麻痺してしまうのです。
それ以降、作曲家に転向し、ピアノ曲の作曲に意欲を燃やします。ピアニスト志望であった自分の夢と、天才少女ピアニストであったクララに対する思慕の念が、ピアノ曲の作曲の原動力となりました。また、「音楽新報」という雑誌の発行人となり、若い音楽家(同い年のショパンや、後にはブラームスなど)を紹介したりする執筆活動も行います。

 シューマンの作品には、<フロレスタン>(激しい)と<オイゼビウス>(穏やかで曲線的)という、キャラクターの対照的な楽想が表れる事がある事や、「キャラクター・ピース」が多いのも特徴の一つです。

 9歳年下のクララとの間に愛情が芽生えますが、ヴィーク先生に反対され、シューマンが30歳の時に、晴れて二人は結婚します。(二人は交換日記をつけていたので、日常の詳細が残されています。)

 結婚をした1840年を境に、100曲あまりに及ぶ、歌曲への集中的な作曲が行われます。(生涯の中でのリート作品は246曲。)二人の間には、次々と8人もの子供が誕生しますが、家計は苦しくなるばかりで、クララは子育てをしながら、国内外で名高い女流ピアニストとしての演奏活動をして、暮らしを支えます。しかし、ロシアなどのクララの演奏旅行先で、シューマンは影になることが耐えられませんでした。

 1841年に、シューマンは交響曲の作曲を始め、生涯に4曲の交響曲を残します。次第に健康を損ねたシューマンは、44歳の時、ライン河に身を投げ、自殺未遂をしますが、漁師に助けられ、その後は精神病院に入れられてしまいます。

 46歳でこの世を去りますが、その後、40年間、クララは生き、シューマンが生前目をかけていたブラームスに支えられたりしながら、夫の作品を世に広めました。しかし、精神病院での2年半は訪れなかったそうです。二人の遺骸は、ボン郊外の墓地に葬られています。                               

シューマンの主要作品リスト
(ピアノ曲と(空欄もピアノ曲です)、1840年の連作歌曲、4曲の交響曲を中心に)

…ピアノ曲  …歌曲  …交響曲  …ピアノ関連 他ジャンル

op1 アベック変奏曲 1829/30
op2 パピヨン(蝶々) 1829/31
op3 ピアノのために(3曲)
op4  
op5  
op6 ダヴィット同盟舞曲集(18曲)1837
op7 トッカータハ長調 1829/32
op8 アレグロ ロ短調 1831
op9 謝肉祭(21曲)1834/35
op10  
op11 ソナタ第1番 嬰へ短調 1832/35
op12 幻想小曲集(8曲)1837/38
op13 交響的練習曲 1834/37
op14 ソナタ第3番へ短調 1835/36
op15 子供の情景(13曲)1838
op16 クライスレリアーナ1838
op17 幻想曲 1836/38
op18 アラベスクハ長調 1836/38
op19 花の曲変ニ長調 1839
op20 フモレスケ変ロ長調 1839
op21 ノヴェレッテン(8曲)1838
op22 ソナタ第2番ト短調 1833/35
op23 夜曲 1839
op24 リーダークライス 1840年(結婚の年)2月
op25 ミルテの花(26曲)1840
op26 ウイーンの謝肉祭騒ぎ(5曲)1839
op39 リーダークライス (12曲)1840年5〜6月
op42 女の愛と生涯(8曲)1840
op48 詩人の恋(16曲)1840
op38 交響曲第1番変ロ長調[春] 1841
op44 ピアノ五重奏曲 変ホ長調 1842
op54 ピアノ協奏曲イ短調 1841/45
op61 交響曲第2番ハ長調 1845/46
op97 交響曲第3番変ホ長調[ライン] 1850
op111 幻想小曲集(3曲)1851
op120 交響曲第4番 ニ短調 1841
シューマンとクララのこぼれ話〜ヴィークの妨害〜

 ライプツィヒ大学の法学部の学生だったシューマンが、クララの父であるピアノ教師ヴィークのもとに弟子入りし、同居しながら教えを請うたのが、1830年。それ以降、1836年頃から、クララとの結婚を邪魔されての誹謗中傷や妨害がヴィークからなされて、クララとも引き離され遠距離恋愛となっていました。シューマンの、クララに対する愛情は一途なものでした。

 ヴィークは、ことあるごとにシューマンとクララの信頼関係を破壊しようと試みたそうです。
ヴィークとの激しい応酬は、シューマンに多大な屈辱と精神的疲労を与えるものだったと記されています。父親として富裕層と結婚させたがっていた他、手塩にかけて女流ピアニストに育てたクララを通しての自分の野望と、娘への心理的な共生関係が存在したようです。

 その間、シューマンは、ピアノ曲の主なものの殆どを作曲しています。作品年表を見ると、ピアノの代表作の多くは1839年までのほぼ10年間で作曲されています。(作品リスト参照)
まさに主要作品ばかりで、驚異的です。

 op22のト短調のソナタなどは1839年の作品ですが、苦しみのさなかにある激情が表現されています。(あの曲を書いた翌年には、愛に満ちあふれた歌曲を作曲しているのですから、人生の出来事と作品は切り離せないですね!)

 ピアニストであったクララはというと、その4年間の間に、おびただしい数の演奏旅行をこなしています。二人の絆は固く、そして、芸術活動での生産性はその時期もの凄かった様です。

 法律を学んだシューマンらしく、1839年6月に法的処置をとり、1840年に結婚の許可が法廷によって下りますが、ヴィークとの闘いの年月で、内面は危機的深淵まで沈まると共に、そこから立ち上がるべき力ともなったと言われています。

 1840年の結婚の年を転機に、気持ちが解放に向かい、歌曲を作曲しようという気持ちになった他、文学青年でもあったシューマン(文学博士の学位も取った)の方向性と合致したのでしょう。連作歌曲集が花開きます。

 1840年中、歌曲の作曲に没頭したシューマンは、なんとその一年後の1841年には、交響曲の作曲へと、方向性を変えるのです。(翌年、1842年は、室内楽の年と呼ばれています。)彼には、ジャンルを一定の時期に集中する作曲の傾向がありました。

参考文献
前田昭雄、藤本一子 他著「作曲家別 名曲解説ライブラリー シューマン」音楽之友社 1995年
ウード・ラオホフライシュ著 井上節子訳「ローベルト・シューマン引き裂かれた精神」音楽之友社1995年
M・ブリオン著 高派 秋 訳 「愛と死の音楽 西欧ロマン派の心」ジャン・ジャック書房
萩谷由喜子「ひとり5分で読める作曲家おもしろ雑学事典」ヤマハ・ミュージックメディア2006年
学研音楽マンガシリーズ「伝記世界の大作曲家15人の偉人伝」学研1992年

フレデリック・フランソワ・ショパン

(ポーランド1810年3月1日生まれ[2月22日説もある] → 1849年10月17日 パリ没)

 ショパンは、ピアノの魅力を最大限に引き出した、格別の天才と言える作曲家です。

   

 肺の病いで39歳でこの世を去ったショパンは、20歳の時に起きたワルシャワ蜂起の際に、祖国ポーランドを離れ、自らの才能を守り発展させるために、パリに活躍の場を求めました。

 

 当時、ロシアからの圧政に苦しんでいたポーランド人は、独立に向けて立ち上がり、国は戦火にさらされていました。

 ショパンは、その革命で、武器を持って戦うのは断念しましたが、芸術を持って立ち向かい、生涯、愛国心は消える事なく、故国への想いやポーランド独自の文化[ポロネーズ、マズルカ]を、自分の作品の中に織り込みました。

 ポーランドへは、二度と戻れぬまま、異国の地でどんなに喝采を浴びても、生涯、孤独感は消えるはなかったといいます。

音楽を愛する両親

 ショパンは、ジェラゾワ・ヴォラと言う村で生まれました。母ユスティナはポーランド人、父ミコワイはフランス人ですが、二人は、その村を所領するスカルベク家に、それぞれ雇われていた時に出逢いました。

 ユスティナは、スカルベク家の遠縁で、早くに両親を亡くした為、家政を取り仕切る役割として、そこに住み込んでいました。

 家庭教師として雇われていた父ミコワイは、フランスのロレーヌ地方にいた少年時代に、その領地を管理するポーランド人に、頭の良さを買われて、特別な教育を受けました。その知遇で16歳の時にポーランドに来て以来、フランスに戻る事はありませんでした。

 文学を好み、ヴァイオリンやフルートの演奏が出来た父と、ピアノや歌の上手な母は、音楽が結びつけた縁でもあり、楽の音は結婚後も絶える事がなかったといいます。

家庭環境の良い少年時代

 ショパンの生まれた年、一家は、首都ワルシャワに移り住みます。父ミコワイが、ワルシャワ高等学校のフランス語フランス文学の教授の地位を得たからです。

 ショパンには、姉や妹もいたので、父は、さらに収入を増やすため、学校に遠方から通って来る富裕な生徒達のために、高級寄宿舎を作ります。

 これは成功し、ショパン一家もその「サスキ宮」内部に住みます。サスキ広場では、次第にロシア軍の行進が繰り広げられる様になり、ワルシャワ高校は、新しく設立されたワルシャワ大学の隣に引っ越すこととなります。

 4人の子供をかかえたショパン一家は、家政婦と家庭教師付きでこのカジミエシュ宮に移り住みますが、そこには大学教授や、詩人、文芸理論家、数学者、民俗学者などが入居しており、そうした人々と交流し、毎週木曜日に集まり合って賑やかに過ごしました。

 4歳のショパンが、ピアノに示す興味はただならぬもので、最初、母が手ほどきをしますが、最初の師として60歳のジブニー先生が迎えられ、バッハやハイドン、モーツアルトなどドイツ音楽を学びます。

ポーランドの社交界の寵児

 少年ショパンは、7歳で、最初の「ポロネーズト短調」を作曲します(父が譜面に書き取り、出版されました)。優雅なメロディー、無駄のない音型や和声はこの頃から特徴に現れていたといいます。

 その頃に、雑誌では「この舞曲の作者ー満8歳の若者は、ワルシャワ高等学校のミコワイ・ショパン教授のご子息にて、正真正銘の天才なり… 」と書き出されている点を見ても、ショパンは、ある地位を持つ堅実な家庭に育った事が明らになります。その礼節をわきまえたしつけは、後々まで、上流社会に好ましく受け入れられる良い影響を残します。

 この時の記事を読んだ、ワルシャワ貴族界では、早速、ショパンを是非サロンに招きたいとの申し込みが殺到しました。
「ショピネック」という愛称を付けられ、社交界の花形になっていきます。ショパンの家の前には、サロンへの招待のお迎えに来た、貴族の従者の馬車が後を絶たなくなります。

 才能ある息子に対し、父ミコワイは、惜しみない支援はしましたが、モーツアルトの父の様に、それで儲けようといった野心は全くありませんでした。
そのため、有料の演奏会は禁止でしたが、チャリティーコンサートの形で貧しい人々を救うなら…との許しを得て、実行に移される事となります。
 8歳のショパンは、伯爵夫人が会長を勤める慈善協会でデビューを飾り、多くの貴族や富豪たちの大喝采を受けます。

 11歳の時に、老ジブニー師のレッスンは終了し、新しく、二人の先生がピアノと作曲の指導に当たります。
毎木曜日のショパン家のサロンには、学士の他にも、音楽家や芸術家も集まるので、そうした中で高名な人が教えを授ける事を名乗り出てくれるのです。

 そこで、ヴュルフェルという一流ピアニストで教育者でもある人が、「ヴィルトゥオーゾ」的な技法や、「ブリランテ」という華麗な技法を学ぶのです。

 ちょうどその頃、ハンガリー人のフランツ・リスト少年は、ウイーンでの演奏会で聴衆を驚嘆させたという記事が新聞に載った様です。

学生時代のショパン

 父も教師の一人であるワルシャワ高等学校時代は、病弱な体質なために学校に通ず家庭学習をしていた時期もありましたが、13歳からは、楽しい学校生活を送ります。
 学校は、家の目の前に有り、先生も生徒も昔からの知り合いだったので、ショパンにとって、学校とは、打ち解けた心地よいものでした。

 威張らず飾らない人柄で、「ものまね」が大得意な少年として、人気があったといいます。
頭は良かったそうですが、興味がある文系の科目(文学・歴史)と、退屈な理数系の科目がはっきりしていた様です。

 

 夏休みは、静養のため田舎で過ごしたりしました。乗馬をしたり、遠足をしたりに次第に退屈してきたショパンは、ワルシャワの家族に「新聞」のパロディー形式で、身の回りの事を事件に仕立てたチャーミングな手紙を送るなどしています。
田舎では、民族の踊りを見て、熱心に民族音楽の採集などをし、そうした中で、最初のマズルカが作曲されます。

 ショパンは、ワルシャワの音楽院に進みますが、同時にワルシャワ大学で歴史や文学の講義にも出席します。教養を身につけさせる教育は、父の立派な方針でもありました。

ウイーンでの演奏会

 19歳で音楽院を卒業し、音楽の都ウイーンへの旅に出たショパンは、そこでも「奥深い感情から流れ出る表情付け、タッチの繊細さ、」など諸々の美点を大いに評価されます。

 人生のどの時点でも、彼は、世のセンセーショナルな扱いに、謙虚でいようとしました。
演奏会の際の、広告、ポスターなどを嫌い、あまり演奏会そのものも好まず、むしろ個人的な親しいサロンなどで、本当の理解者の中でくつろいだ雰囲気で弾くのが好きだった様です。

二度と踏む事のないワルシャワの地

 ショパンは、友情をとても大切にしました。ワルシャワ時代の親友ティトゥスや、パリに行ってからもなにもかも頼める親友だったフォンタナなど、深く親交のある友に恵まれました。

  

 運命の1830年、親友ティトゥスに同行してもらい、数年間の演奏旅行をしようとしていました。
父ミコワイも、国内情勢が緊迫している中で、一刻も早く、息子を国外に出してやりたがっていました。

 秋には、国民劇場で、祖国とショパンのの告別の演奏会が開かれ、「協奏曲 ホ短調」が演奏されました。
 そのひと月後、校長や学生合唱で見送られる中、ショパンの乗った駅馬車は感慨ひとしおに、二度と見ることがないワルシャワを後にすることとなります。

ワルシャワ蜂起

 その後、ティトゥスとともに、ドレスデン、プラハと経由しウイーンに到着します。ウイーンでは、すっかり忘れ去られていたショパンは、演奏会の約束も延び延びにされたので、毎晩の様に、オペラを観たりして音楽の都を満喫しようとしますが、ワルシャワに対し敵対的なこの街では、ひどく疎外感を味わいます。

 とうとうワルシャワでは、11月蜂起が勃発し、ティトゥスは国に帰って参戦する事を決意します。
ティトゥスに「ショパンは、闘いでは役に立たないから、自分の芸術に専念し、ポーランドの名を世に広める事によって、銃を取るのよりもずっと祖国のためになる!」という説得をされ、ショパンも納得して、命運を決意するにいたるのです。

 各地を経由して、パリへ向かうショパンは、シュトゥットゥガルトで、ワルシャワの陥没の訃報に接します。

 もう、完全にロシアに占領されてしまった祖国へ戻る望みは、無くなったのです。
焼き払われた町や、家族や友の不遇を憂いていたこの時期は、絶望や極度の緊張、興奮、激しく渦巻く様な感情が、全くの一人旅となったショパンを襲います。

 この時期は、激情を日記につづり、「op10の練習曲」を書き上げます。この練習曲には、有名な「革命のエチュード」が入っています。

パリの社交界で

 大都会のパリは、良くも悪くもショパンを圧倒し、感嘆させました。

 ポーランド人への態度も、ドイツ人(ポーランドは、ロシア・プロシア・オーストリアに三国分割されていた)とは全く違って居心地が良く、自由を感じて、更に、ポーランドから亡命して来た多くの文化人達と(「バラード」に霊感を与えた詩人ミツケヴィッチなど)、またたくまに交友を結びます。
そして、多様な芸術家が引き寄せられる様に集まって来たパリで、爛熟する文化の香りに包まれながら、オペラの舞台を観たりサロンに通ったりして音楽生活を謳歌します。

 カルクブレンナーという、当時のパリ最高の指導者からも目をかけられますが、弟子入りは断ったものの、その後も、様々な場で助言や後押しをして貰える様になります。
彼の紹介で、楽器製造業者のプレイエルのホールで、パリデビュー公演が開かれます。
 そこには、招待客として、著名な人々の姿が有り、リストやメンデルスゾーンも、この観客の中にいました。

 この演奏会は大成功し、これを機に、ショパンはパリの楽壇で押しも押されぬ地位を獲得していきます。

 リストやベルリオーズなどの新しい友人と、音楽家サークルの様なものまで出来上がり、皆で議論や食事など共に過ごす楽しい時間も持ちました。
この頃の主な収入源は、貴族の子弟のピアノ個人レッスンで、一日5軒を馬車で回り、かなりの収入を得たため、ポーランド人亡命者の経済的援助をするなど、慈愛あふれる性格もみられます。

 マリア・ヴォジンスカというポーランド女性に恋をし婚約しますが、しばらくの後、相手の家から、ショパンの健康上の理由から、断られます。
その時の痛手は相当深く、水色のリボンで束ねられた手紙を、「わが悲しみ」と題し、死ぬまで保管されていたそうです。

女流作家ジョルジュ・サンドとの出逢い

 ショパンの作風は、ますます深い情感を表すものとなっていきました。カールスバートに療養に来た両親と、再会を果たし、一ヶ月間幸せな家庭生活を味わいますが、パリでのショパンは、孤独感がつきまとっていました。友人と同居したりして、家庭のぬくもりへの渇望を満たそうとします。

 そうした中、リストの愛人マリー・ダクー伯爵夫人のサロンで、男装の麗人と呼ばれていた、作家のジョルジュ・サンド(これはペンネーム。本名はオーロール・デュパン)と知り合います。

 最初の頃ショパンは、奇抜な彼女をあまり好かず、友人に手紙を送ってその時の悪印象などを述べたりしています。
 サンドは6歳年上で、元夫との結婚に終止符を打ち二人の子供を養育しながら、奔放な生活を送っていました。
 作品には、私小説と考えられている男性遍歴の小説や、牧歌的な短編「愛の妖精」などがあります。
 サンドの方から、ショパンにアプローチをかけ、次第にその意外性のある思いやりと、母性的な献身に惹かれていき、情熱的にのめり込む様になります。

マジョルカ島へ

 二人がつき合い始めた頃、サンドは、自身の息子と娘を連れて、スペインのマジョルカ島での静養を、ショパンに勧めます。

 ショパンはその誘いに乗り、こうして、紺碧の海と切り立った岩壁、糸杉やオリーブの情景に、オレンジやレモンの香りが立ち込める、地中海独特の美しい土地に旅立ちます。

 

 一行は、そこで豪雨と湿気に合い、ついにショパンの肺の病が悪化してしまいます。
島の住人からは、「結核患者が来た」と口々に言い合い、家具の消毒など徹底させたり交通手段を制限したりと、ひどい扱いを受けました。

 次第に回復する中、サンドは、丘を登るのが大変なショパンに、ロバを買ってあげたり、プレイエルからピアノを運ばせたり献身的にお世話をします。

 マジョルカ島では「24の前奏曲」を書き上げます。雨だれの前奏曲は、マジョルカの雨でしょうか。。

ノアンの屋敷での静養と作曲の日々

 フランス中部のノアンの屋敷は、サンドが祖母から譲り受けた大きくて優雅な邸宅でした。

 自然に囲まれた田舎での暮らしは穏やかで温かく、サンドの手厚い庇護のもと次第に健康も回復に向かい、ショパンは作曲に専念します。ショパンにとって、夢にまでみた家庭の暖かみが味わえて、幸せだったこの時期ほど、創作活動が充実した時期はありません。
 名だたる傑作が、続々に生み出されました。ノアンとパリを行ったり来たりの数年が、充実して過ぎて行きました。

 ショパンの作品には、人々の心の琴線に触れる深い感情の吐露があり、そのため苦手な大規模なコンサートの前は、神経質な大騒ぎをする程、緊張していたそうです。

 この時期で特筆すべきは、サンドが、ポーランドのショパンの父の訃報に際し、母ユスティナに対して、心優しく折り目正しい、素晴らしい慰めの手紙を送っている事や、ショパンの姉夫妻を邸宅に招き手厚くもてなし、その後破局までの間、文通していたことなどがあります。(サンドからの一方的な破局後は、姉は返事を書きませんでした。)

 その筆致は、破天荒な作家のものではなく、愛情深い年上の女性として、きめ濃やかな心配りをしている内容と言葉の運びでした。

サンドとの破局

 パリやノアンでの7年間の同居も、次第に、暗雲が立ちこめます。

 1845年にサンドの娘ソランジュと、彫刻家のクレサンジュとの結婚問題で、サンドの親子はお家騒動になります。ショパンが ソランジュの側につき味方をしたとかで、親としての威信をつぶされた様に感じたサンドが、ショパンに干渉せぬ様に手紙できつく言い渡しています。

 

 繊細なピアノの詩人との生活は、サンドに取っては、非常に神経を使うものだったのかもしれません。二人の気質は、全く正反対でした。

  

 別れの手紙の数ヶ月前まで、ショパンは、パリとノアンで離れて過ごすサンドからの要求に応じ、冬服の布地をあつらえたり、ボンボンを送ったりとこまめに尽くしている様な手紙が残っています。

 この頃から決定的に、ショパンの結核の病状が悪化の一途をたどっていたことを、サンドは知っており、むしろ本人に隠していました。

ショパン ぺール ラシェーズ墓碑

 1846年になって、ショパンに最後の手紙を送りつけたサンドの心中には、どのようなものが渦巻いていたのでしょうか。
特にどの資料にも記されていませんが、ショパンの結核の悪化を、本当にサンドは受け入れていたのでしょうか。

 この3年後にショパンが亡くなった事を思うと、この破局の痛手の大きさは、計り知れません。

 祖国や父母姉妹と離れてはじめて味わった、温かい家庭らしきぬくもり…、10年近く続いたサンドとの関係がもたらした恩恵は、それを心ならずも失ったショパンにとって、魂の死に近いものをもたらしました。

 別れてすぐ後に、サンドは新聞記者の愛人となり、ショパンの方では、母親から勘当されたソランジュ夫婦に手紙を出し続け、死ぬまで親交を絶ちませんでした。
そうすることで、サンドとのつながりを絶ちたくないという想いもあったのでしょう。

 ショパンとサンドが最期に会ったのは、ソランジュの出産の折で、廊下でひとこと言葉を交わしたのみでした。

失意のイギリス演奏旅行

 茫然自失となって、創作意欲もすっかり枯渇してしまったショパンに、弟子のスターリング嬢が、ロンドンでの演奏会を計画します。
 ショパンは、健康状態も悪化したままロンドンへ旅立ち、孤独で滅々とした日々を送ります。最後の作曲となったのは、マズルカです。

  ポロネーズに始まり、マズルカに終わったショパンの創作活動は、ポーランドの愛国心で溢れています。

パリでの最期の時

ショパンの最期のひと月の住居
ヴァンドーム広場12番地のアパルトマンは、
現在、宝石店ショーメとなっている。

 1849年10月、39歳のショパンは、最後の住まいであるヴァンドーム広場12番地で、親しい友人に歌を歌ってもらい、姉や、親しい友人に囲まれて息をひき取りました。

  

 亡くなる前日に、最後の言葉として「自分の心臓を故郷のワルシャワに運ぶこと、葬儀にはモーツアルトのレクイエムを流すこと」など残しまいた。

  

 葬儀はマドレーヌ教会で執り行われ、聖堂には約3千人の人々、外には大群衆が立ち尽くしていました。レクイエムの他にも、ショパンのプレリュードや、葬送行進曲が演奏されました。
  葬列は、ペール・ラシェーズ墓地に向かって出発しましたが、心臓だけは、今もポーランドの聖十字教会に納められています。

参考文献
バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著 関口時正訳「決定版 ショパンの生涯」音楽之友社
アーサー・ヘドレイ編集 小松雄一郎訳「ショパンの手紙」白水社
下田幸二著「聴くために 弾くために ショパン全曲解説」ショパン
室田尚子・佐藤浩子・山尾敦史共著
「知っているようでしらないショパン おもしろ雑学事典」ヤマハ

ショパンの主要作品リスト

ピアノ協奏曲
第1番 ホ短調op11 1830年 20歳 ワルシャワを離れる頃
第2番 へ短調op21 1829〜30年   1番より先に作曲
ポロネーズ

(ポーランドの民族性豊かな3拍子の舞曲。マズルカより規模が大きい。7歳の時、初めて作曲したのはポロネーズト短調)

第3番 op40-1 軍隊 1838〜39年 28歳頃 サンドとつき合い始めた頃
第5番 op44   1841年 31歳 ノアーンの頃
第6番 op53 英雄 1842〜43年 33歳頃 ノアーン
第7番 op61 幻想 1845〜46年 36歳頃 サンドとの仲、健康状態の悪化
アンダンテスピアナートと華麗なる大ポロネーズop22 
    ポロネーズ部分は、ワルシャワを出た頃。アンダンテ部分は、パリ楽壇でもてはやされ始めた頃。パリ音楽院ホールで、オーケストラと共演。


バラード

 (ポーランド出身の詩人、ミツキエヴィッチの壮大な物語詩からインスピレーションを得る。『』内はその詩の作品名)

第1番 op23 『コンラッド・ワレンロッド』 1831〜35年 23歳頃 パリに来た頃
第2番 op38 シューマンに献呈 1836〜39年 29歳 マジョルカ島で完成
第3番 op48 『水の精』 1840〜41年 30歳頃 パリで久々に公演を開き益々高まる名声
第4番 op52   1842〜43年 33歳頃 親友や相次ぐ知人の死
スケルツォ

(冗談、戯れという意味)

第1番 op20 1831〜33年 22歳頃 ワルシャワの革命を聞き、激情のシュトゥットゥガルト時期。
第2番 op31 1837年 27歳 サンドとの出逢いの頃
第3番 op39 1838〜39年 29歳頃 マジョルカ島で着手
第4番 op54 1842年 32歳頃

パリのオルレアン・スクエアの家で、サンドと行き来していた充実期。

ピアノソナタ
第2番 op35 「葬送」 1839年 29歳  マジョルカ島
第3番 op58   1844年 34歳  父ミコワイ死去
エチュード
エチュードop10(12曲) 1829〜33年 19歳より
 

ワルシャワを出てシュトゥットゥガルトで絶望していた頃に作曲。
フランツ・リストに献呈。
革命のエチュードはop10-12

エチュードop25(12曲) 1832〜37年 リストの愛人であるマリー・ダグー伯爵夫人に献呈
プレリュード

プレリュードop28(バッハと同じく、24の調で書かれた)
1938から39年 ワルシャワ蜂起で悲嘆にくれていたころに書き始め、マジョルカ島で完成

マズルカ

(ポーランド民族性豊かなの3拍子の舞曲。最晩年に作られたのは、2曲のマズルカでした。生涯に渡り多くのマズルカを作曲。)

第5番 op7-1 1830頃 20歳

ノクターン

(夜想曲。生涯に渡って作曲。)

ノクターンの創始者はアイルランドの作曲家ジョン・フィールド(1782〜1837)。
有名なop9-2は、20歳頃の作品。
もうひとつ有名な遺作のノクターンは、実際は20歳頃の作。

ワルツ
  
第1番 op18 華麗なる大円舞曲 1833年 23歳 ワルシャワから離れ、ウイーンに立ち寄った際、シュトラウスのワルツなどを沢山耳にした影響による。
第6番 op64-1 子犬のワルツ 1846〜47年 37歳 サンドの飼っていた犬の様子。
しかし、この頃二人は別れる。
第7番 op64-2   同じ時期    
第9番 op69-1 別れのワルツ  25歳 マリア・ヴォジンスカから婚約解消される。

 

 

即興曲(4曲)
第1番 op29 1837年 27歳  
第4番 op66(遺作)幻想即興曲 1834〜35年 25歳位 婚約解消で失意。出版は、死後、フォンタナによる。

 

幻想曲

op49 1841年 31歳 ノアーンの屋敷で生まれた曲。

舟歌(バルカローレ)
op60  1845〜46年  36歳  8分の12拍子の美しい作品は、ノアーンの屋敷で完成。
しかし、しだいに不和が。漂う寂寥感は、そのためか…。

ガブリエル・ユルバン・フォーレ

 (南フランス・パミエ1845→パリ1926) 

 南フランスのパミエで、祖父の代までは肉屋さんを営むフォーレ家だが、父は小学校教師から校長になり、その5人の息子(フォーレは末っ子)は、公職にも多く就くようになる。

9歳の時、パリのニデルメイエール古典宗教音楽学校に入学。礼拝堂楽長を養成する学校である。ニデルメイエールの死後、ピアノ講師として赴任して来たサン・サーンスと師弟関係になり、以来ずっと親交が続く。そこでの教育は、フォーレの音楽における旋法の使用などに影響をみる事が出来る。卒業後、フォーレは、レンヌの教会のオルガニストに就任後、地方暮らしに飽き飽きし4年後に辞職し、志願して普仏戦争に従軍している。その後、パリのサン・シュルピュス教会の副オルガニストを経て、マドレーヌ寺院の礼拝堂楽長(サン・サーンスの後任)となる。フォーレは、オルガンにはあまり熱意を持たないが、サンサーンスの証言によれば、「オルガンに向かうと、一級のオルガニストであった」そうである。
婚約者マリアンヌとの破談後、苦い思いで作曲したものが「夢のあとに」である。

 38歳で、彫刻家のフレミエ(パリのピラミッド広場にあるジャンヌ・ダルク像などを制作した人物)の娘マリーと結婚し、同年、長男が誕生する。この年(1883年)、ピアノ曲を多く作曲する。上流の夫人に非常に人気があったフォーレは、後にドビュッシー夫人となる才気煥発なエンマ・バルダックらと浮き名を流す。パリの上流階級のサロンで常連となる。それ故か、ショパンの書法の影響がみられる彼の初期から中期の作品は、サロン的な流麗さがあり、かつ官能的で甘美な旋律と和声、驚くべき美しい転調が特徴となっている。

 マルセル・プルーストの長編小説「失われた時を求めて」では、フォーレをモデルとした作曲家が登場するが、まさにその華やかで優雅な社交界に彼は出入りしていた。

 1890年代、ドイツの作曲家ワーグナーの信仰者が多いパリの楽壇でも、フォーレは、ワーグナー熱には巻き込まれない作曲家であった。

 音楽学校の学生だった頃から、フォーレは、オルガンよりもピアノに関心を示していた。ピアノ曲は、歌曲や室内楽と共に彼に取って重要なジャンルであり、60曲を越えるピアノ曲を残した。ヴァルス・カプリス4曲、バラード、連弾曲ドリー、ノクターン(夜想曲)12曲、バルカローレ(舟歌)13曲、アンプロンプチュ(即興曲)6曲、主題と変奏などが、彼の主要なピアノ曲である。
とりわけ、バルカローレとノクターンは、彼の生涯の長い時期に渡って作曲されている。

 彼の音楽は、独自の美意識を貫いており、生涯を通じて、純粋音楽の領域で創作を続けた。絵画的な表現や異国情緒や民族音楽の方向に逸れる事は無かった。
フォーレの音楽の底には、謹厳さがあり、胸に沁みる憂いに満ちた優しさや、夢想的で控えめな性格、思慮深い微笑みを有している。

 1897年(52歳)、フォーレは、マスネの後任として、パリ国立音楽院の作曲科の教授となる。教え子には、モーリス・ラヴェルや、フローラン・シュミット、ケックラン、デュカス、エネスコらが育った。

 1905年(60歳)より、パリ国立音楽院(コンセルヴァトワール)の院長という、フランスで最も権威ある要職に就くことになる。その2年前より、「フィガロ紙」で音楽批評を担当する。ちょうどその頃から、聴覚障害を覚え始める。
師のサン・サーンスは、フォーレのキャリアの重要な場面で、常に援助を惜しまなかった。

 1915年頃は、第一次世界大戦で生徒を沢山戦場にとられ、心配の日々を送る。聴覚の病も次第に進む。

マドレーヌ寺院

 フォーレは、仕事での旅先から妻への手紙を沢山残しており、次男のフィリップによって、非常に貴重な資料として出版がされている。手紙の内容は、妻への愛の言葉ではなく、日々の感想や構想中の作品のことであり、正確に記載されている。見合い結婚の妻への愛は醒めても、思いやりの気持ちを失う事がないフォーレであった。
作曲という行為は、常に要職に就いていたフォーレの、安らぎの行為であり、彼の本当にやりたかった事であった。
葬儀は、マドレーヌ寺院で、自身の作曲した「レクイエム」が演奏される中、国葬が営まれた。79歳であった。フォーレは、45歳の時に「レクイエム」への記述で、「私にとって死は、苦痛というより、喜ばしい解放…」と述べている。息子達へは「私がいなくなったら、私の作品の言っていることに耳を傾けなさい。」と言い残している。

参考文献
J=M・ネクトゥー著「評伝フォーレ 明暗の響き」大谷千正監訳 新評論 2000年
マルグリット・ロン「回想のフォーレ ピアノ曲をめぐって」遠山奈穂美訳 音楽之友社 2002年
「サン・サーンスとフォーレ往復書簡集」ネクトゥー編著 新評論 1993年
アルフレッド・コルトー著「フランス・ピアノ音楽1」安川定男・加寿子共訳 音楽之友社 1995年

クロード・アシル・ドビュッシー [印象派]

 (フランス 1862年サン・ジェルマン・アン・レー生まれ → 1918年パリ没) 

 ドビュッシーは、19世紀末から第一次世界大戦終了までの時期に、独創的な作曲技法を生み出しました。

小学校に通えなかった幼年期

 父は、パリ近郊のサン・ジェルマン・アン・レーで、瀬戸物の小売り商でしたが、商売はうまく行かず、いくつかの職や住居を転々とします。この頃パリは、「普仏戦争」「パリ包囲」と、社会情勢が穏やかではありませんでした。長男であるドビュッシーが9歳の時、生活苦にあえぐ市民が「パリ・コミューン」という革命運動を起こし、ドビュッシーの父親はそれに参加し、投獄された時期もあります。このことは幼少期のドビュッシーに深い影を落としました。

パリ音楽院での少年期

ドビュッシーの生家 
現在1階はオフィス・ド・
ツーリズムで、2階が博物館

 少年達が、お小遣いを握りしめて、安くて量のあるお菓子を選んでいる時に、ドビュッシーは、最上等のお菓子をほんの少し買うような、貴族趣味を持っていました。風変わりで夢想癖のある子供だった様です。

 一家の暮らし向きは良くはなく、マダム・モーテ・ド・フルールヴィルという優れたピアニストが、ふとしたことからドビュッシーの才能を見抜き、無償でピアノのレッスンを受けれる様になります。その指導の甲斐あって、その一年後の1872年には、わずか10歳でパリ音楽院に入学します。157人の応募者のうち入学出来たのは、39人。うち男は8人でした。

 ピアノのマルモンテル先生のクラスでは、独特の個性を見せ始め、ソルフェージュの先生にも「彼の耳と、音楽に対する感受性は並外れている」と評価され、二等メダルを経て、半年後には、一等のメダルを取っています。翌年のピアノの試験では、シューマンのソナタを弾いて二等賞を取りました。その後、和声法やピアノ伴奏法(一等賞)のクラスに入り、最後には作曲法のクラスへと進級し、まさに12年も、この音楽院に在籍する事となるのです。

 友達間の評判では、「無愛想と言っていい程の無口」な人だったそうです。

上流社会や文壇とのつながり〜青年期〜

 学生をしながら自分で学費を稼ぐために働くのですが、ピアノの腕前のおかげで、上流家庭のお抱えピアノ弾きのアルバイトを得ました。17歳の夏休みには、ロワール河流域のシュノンソーに住み込みます。次の年からの3年間は、夏休みの度に、チャイコフスキーのパトロンでもあった、ロシアの大富豪マダム・フォン・メックの家族や召使いと共に、ピアニストとして、スイス、イタリア、ロシアなどの旅行に参列します。

 チャイコフスキーの音楽はもちろん、ロシアの作曲家ボロディンや、ジプシーの音楽にも、この旅行のおかげで親しんだと言われています。同じ頃、上流婦人の声楽の集まりで伴奏ピアニストをした時に知り合った若く美しいマダム・ヴァニエ(ソプラノ歌手)からも声がかかり、夫人は、小学校も出ていないドビュッシーを、家に招き、沢山の詩や文学作品に触れさせました。ドビュッシーは、夢中になって読みふけりました。

 音楽院を卒業した1884年に、カンタータ「放蕩息子」で、ローマ大賞第一席を取ったドビュッシーは、ローマへの留学が義務付けられますが、ヴィラ・メディチでの集団生活が性に合わなかったのか、ぎりぎりの2年間でパリに逃げ帰ります。パリに帰ったドビュッシーは、印象派の絵画や、象徴詩人マラルメなどの詩に心が動かされ、ピエール・ルイスと親交を結び、マラルメの火曜会など文学者の集まりへ、顔を出す様になります。有名なこの集まりも、音楽家はただひとりでした。学生時代は、ワーグナーに傾倒していたドビュッシーも、次第に仰々しい音楽に反発し、離れ始めます。

 マラルメの「牧神の午後」のテキストを読んだドビュッシーは、詩から受けたイメージを音楽にし、1894年に、オーケストラ作品として「牧神の午後への前奏曲」とし、国民音楽協会で初演され、一躍有名になります。また10年がかりで、メーテルリンクの戯曲を元に、オペラ「ペレアスとメリザンド」を作曲し、絶賛されます。その後も、エドガー・ポーのオカルト趣味の小説から交響曲を書いたりと、文学を愛するドビュッシーは、テキストと音楽の一体化を図ろうとしました。

独創性を確立する中年期

 結婚は2回、1899年からの六年間と、1908年(1904年から一緒に住む)からの富裕な銀行家夫人であったエンマ・バルダックとの結婚で、この2つの結婚の間に色々ともめ事があり、ピストル自殺を図った最初の妻リリーに同情し、友人達が離れていくといった事もありました。

 ドビュッシーは、「睡蓮」を描いた画家のモネなど「印象派」と呼ばれる画家と同時代に生き、彼の音楽は「印象派」と言われます。

 1889年にパリで開かれた万国博覧会で、インドのガムラン音楽やジャワの音楽を聴いたドビュッシーは、形式の自由さ、リズムの斬新さ、打楽器の効果、ヨーロッパ音楽にはみられない和声を聴き、強い感銘と影響を受けます。従来の和音の規則にとらわれず、五音音階や全音音階などを取り入ます。半音階、古代旋法、重ねられた音など、自由で斬新な和声の使用で、新しい音楽を作り出しました。

 とりわけ、自然に対する関心の強さが見られ、海や風、森、水などを音楽で描写しました。これは、彼の生家のある場所が、ルイ14世の設計した大きなパークがあり自然に囲まれていた幼年時代とも無関係ではないでしょう。又、魚、妖精、ギリシャの女神、場所など、一枚の写真を撮る様に、音楽に表したことが重要な特徴です。

 ドビュッシー自身の演奏は、今でもピアノ・ロール(紙の録音法)での録音が残っていますが、他の人とは違う、優れた音感覚を持っていた様で、音の響きが美しく、ピアノが上手です。

晩年

 1918年、ドビュッシーは、直腸がんで亡くなります。その翌年、エンマとの一人娘であるシュウシュウ(愛称)も、わずか13歳で亡くなりました。

 

ドビュッシーの主要ピアノ作品

1888年 2つのアラベスク
1890年

ベルガマスク組曲

ダンス

1901年 ピアノのために(3曲)
1903年 版画(3曲)
1904年

仮面

喜びの島

1905年 映像第1集(3曲)
1907年 映像第2集(3曲)
1908年 子供の領分(6曲)
1909年 小さな黒人
1910年

12の前奏曲第1集

レントよりおそく

1913年 12の前奏曲集第2集
1915年

12の練習曲

白と黒で(連弾・3曲)

 

参考文献
平島正郎、村井典子 他著 「作曲家別 名曲解説ライブラリー ドビュッシー」音楽之友社1993年
E・ロバート・シュミッツ著 大場哉子訳「ドビュッシーのピアノ作品」全音1984年
青柳いづみこ著 「ドビュッシー 想念のエクトプラズム」東京書籍1997年
萩谷由喜子著 「ひとり5分で読める作曲家おもしろ雑学事典」ヤマハミュージックメディア2006年
学研 音楽マンガシリーズ「伝記世界の大作曲家15人の偉人伝」学研1992年

バルトーク=べーラ<ハンガリー語は、姓、名の順>

 (1881.ハンガリー、トロンタール県 → 1945.アメリカ) 

 7歳の時に、父親(農業学校の校長)が亡くなり、母親は小学校の教師をして、バルトークと妹の生活を支える。

 ハンガリーは、隣近の他国に3世紀もの間支配されていたため、独自の音楽が発展しなかった。音楽の教育も然り。有名なフランツ=リストも同国人だが、彼は、早い内に国を出てヨーロッパを又にかけて活躍したので、ハンガリーの音楽文化の向上には直接なにも関わらなかったと言ってよい。それより後に生まれたバルトークは、初め、ピアニストと作曲家として出発するが、強い愛国心のもと、他の国のまねでない、誇りに満ちた自国の音楽を残そうという気持ちから、民族音楽の研究をした。

 農民と交流してハンガリーの民謡を数多く採集し、自らの音楽語法に取り入れた。
ハンガリーの山奥の村々のみでなく、アラビアやルーマニア、ロシアなどでも採集した。
そのための外国語を、すべて習得した。
古くから伝わる民謡の採集の為には、その村に住む老婆達に歌ってもらい、フォノグラーフに録音するという方法をとるが、都会から来た作曲家になかなか心を開いてはくれずに苦労した。

 バルトークは、鋭い耳を持ち、知性、教養にあふれた人物であった。彼の音楽は、きれいとか、そういった類いのものでなく、音楽そのものの力があった。後にピアニストの妻との間に生まれた2人の息子の教育の為に、ミクロコスモス(全6巻)を作曲する。若い頃の曲に比べ、年を取るにつれ、大切な要素をシンプルに残し、他は切り捨てる手法をとった。

 第二次世界大戦のさなかに亡命し、アメリカのコロンビア大学に研究員として招聘されるが、後に解雇され困窮のなかで晩年生活を送ることを余儀なくされ、白血病で亡くなる。前にも述べたが、彼はピアニストとしても一流の腕前を持っており、生涯にわたり何度も演奏会を開いている。そうした収入や作曲の収入が生活を助けたが、彼の最大のライフワークは、民族音楽である。

古典派について

 バッハの死後(1750年)、バロック音楽の時代は終わりを告げる。

 バロック音楽が、多声部音楽であるのに対し、次に出て来る古典派の音楽は、
機能和声(TSDT)の支配する音楽である。メロディーと伴奏のホモフォ二ーが主となる。ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンによって、ソナタ形式が確立された。
オーストリアのウイーンが、その頃の音楽の中心的な舞台であるが、それは、マリア=テレジア女帝の支配するハプスブルグ家の、巨大な権力と深く関係している。

 1789年にフランス革命によって、ルイ16世とマリー=アントワネット(マリア=テレジアの娘で、オーストリアからフランスへ政略結婚)が処刑され、王政は倒れる。
その後、英雄ナポレオンの時代が訪れる。ベートーヴェンは、まさにこの自由主義が開花した時代に生き、才能を開花させた。

 それまで音楽は、教会か王侯貴族のものであったが(モーツアルトの頃まで)、以後は、市民が自分でコンサートに足を運べる時代となった。

 古典派の次に訪れるロマン派の感情表現の方向性は、まさにこの頃から芽が出ているのである。ベートーヴェンの後期のものは、モーツアルトの、優雅な貴族に好まれる質のものとは全く別の、自分の内面の発露がはっきりみられる。環境、そしてその作曲家の性質が、作品と切り離せないものであるということは、いつの時代の作曲家にも明らかである。

 クラヴィーアに代わって、クリストフォリ(伊)によって発明(1698年)されたフォルテピアノの制作技術が、この時期ピークを迎えた。*あらゆる楽器の制作技術の全盛期(ヴァイオリンのストラディヴャリウスなど) これは作曲技法の幅を広げた最も重要な出来事である。ベートーヴェンは、色々なピアノを寄贈された。こうした中で、多様な表現が生み出される。 

 古典派の特徴としては、全体の統一感、均衡(バランス)、確固とした形式(ソナタ形式)、明確な調性感、機能和声などが挙げられるだろう。大変にドイツ的、かっちりとしている。この頃、交響曲が確立される。

ロマン派の音楽

革命後の自由さからロマン派の様式が生まれた。19世紀に入り、人々は内に秘めていた深い感情を表すようになる。節度や調和、客観性を重視した古典派の音楽への反動で、音楽の中に、個性や独創性が強調される。個性の時代。

 豊かな感情とあふれるばかりの解放感、そして歓喜や憂うつを表している。音楽が伝えたり、呼び覚ましたりする感情の広さは限りない。
ショパンの心情の発露とピアニスティックな魅力に溢れた曲、シューマンの詩情、ブラームスの重厚なロマンチシズム、リストの華麗なピアニズム…。

 貴族の衰退とともに市民は自由を手にし始めた。工業の発達にともない印刷も容易になって来た。
新しいタイプの様式が、次々と生み出されていく。
古典にもみられた、ドイツ舞曲、ワルツ、レントラー、エコセ―ズに加えて、無言歌、スケルツォ、ノクターン、プレリュード、バラード、アンプロンプチュ、ファンタジー、インテルメッツォ、ロマンス、カプリッチョ、ラプソディー…etc。

・主観的な表現

節度や調和、客観性を重視した、古典派への反動と、革命後の自由さからロマン派の様式が生まれた。19世紀に入り、人々は、内に秘めていた深い感情を表すようになる。個性や独創性が強調される。
人々の感情を、古典派の様なかっちりした枠組みから外して、溢れる様に表現した時代である。

表現の手段として、作曲上で用いられた手法は、減7和音、増6和音、属9和音、3全音、不協和音の使用、又、ロマン派後期のなると、旋律線や和声の半音階的進行、全音音階、5音音階、異国の旋法、などが多用され様々なニュアンスを出している、

国民楽派…自国の民謡やリズムを曲の中に大きく取り入れ始めた。東ヨーロッパは、目覚めたばかり。
チェコのドボルザークとスメタナ、ノルウェーのグリーグ、フィンランドのシベリウス、ロシアのチャイコフスキー、ムソルグスキー、ボロディンなど。

民族的な旋律
人間の表現にはいろいろな形のリズムがある。
異なる国のリズム